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80年目の慰霊の日

今年は、沖縄戦の組織的戦闘が終結してから80年という節目の年を迎えました。

黙祷を捧げる

ここ数年、この時期は沖縄で過ごすことが多く、今年は正午に実家で、母とともに南部の方角へ向かって黙祷を捧げました。

沖縄戦では、読谷村をはじめとする中部地域に上陸した米軍により、日本軍は南部へと退却を余儀なくされました。
その際、壕に避難していた民間人もまた、日本軍の指示により壕を追われ、糸満市方面へと向かうことになります。
その中間地点に位置する南風原町にも、多くの壕がありました。

南風原町へ

今年は午後から南風原町を訪ねました。
沖縄全戦没者追悼式の会場として知られる「平和祈念公園」や、ひめゆり学徒隊の体験を伝える「ひめゆり平和祈念資料館」などには、これまで何度か足を運んだことがあります。
今回は初めて、南風原町(はえばるちょう)にある「南風原文化センター」と、「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」へ行ってきました。

沖縄陸軍病院南風原壕は、沖縄戦当時に日本軍が使用していた壕の一つで、負傷兵の治療が行われていた場所です。
文化センターには、壕の内部を再現した実物大の模型や、当時の資料が展示されており、その見学のあと、現在町内で唯一公開されている実際の壕の中にも入ることができました。

想像を絶する壕の実態

資料によると、壕の長さは約70メートル、高さと幅は約1.8メートルとされていますが、実際に中に入ると、場所によっては身をかがめなければ通れないほどの狭さと低さでした。

この暗く、息苦しいような空間の中で、次々と運び込まれてくる負傷兵を看護し、治療にあたっていたひめゆり学徒隊や医療従事者たちの気持ちを想像することすら、おこがましく感じました。

米軍が南部に迫る中、壕からの退去を余儀なくされた際、自力で動けない患者には青酸カリ入りのミルクが与えられたという証言も残されています。
そのミルクを苦くて飲めずに吐き出し、銃口を向けられながらも必死に逃げ延びた兵士の体験映像も見ることができました。

ただ資料を読むだけでなく、実際に壕の中に入り、その空間に身を置くことで、改めて強く感じました。
「戦争は絶対に起こしてはいけない」
「二度と同じ過ちは繰り返してはならない」
誰もが心に深く刻まなければならない。

真実はひとつ

近年、国会議員による不適切な発言や、戦争の事実を美化するような報道を目にするたび、心が痛みます。
戦後80年が経ち、戦争の記憶を直接語れる人々が年々少なくなる中、私たちの世代がその記憶を語り継いでいかなければいけないと、強く感じています。
戦争の悲惨さという「真実」は、誰が語っても変わることはありません。
同じ過ちを繰り返すことは、絶対にあってはなりません。

「鉄の暴風」の中で命を落とした方々や、自ら死を選ぶよう強いられた方々――すべての戦没者に深い追悼の意を表するとともに、平和の尊さを改めて胸に刻み、世界の恒久平和を心より祈念いたします。

月桃に込められた願い

最後に、この時期になるとよく耳にする一曲をご紹介します。
1982年に海勢頭豊さんが作詞・作曲した「月桃」は、沖縄戦で亡くなったすべての人々を追悼し、平和への願いを込めた歌として、今も多くの場面で歌い継がれています。

月桃の花は、白くて可憐な花を咲かせ、葉はムーチー(餅)を包むのにも使われ、その香りはとても心地よく、人々の暮らしの中に息づいています。
平和への祈りとともに、その花のようなやさしさが世界中に広がっていきますように――。

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